tori ga utautori ga utau

屋上から Okujoh-kara

お一人様2個まで

2014年に鳥獣虫魚レーベルから発売しました9曲入りのCDです。 流通しているためタワレコなどCD店でのご注文、お取り寄せも(おそらく)可能です。現在ネットショップで在庫がありそうなのはJET SET、EGYPT RECORDSです。 試聴:https://soundcloud.com/cgcgpub/cgcg032 2014/8/27 発売 CGCG-032 CD JAN:4941135457139 kyooo「屋上から」1500円+税 kyooo "Okujoh-kara” [From the Rooftop] 1 お帰りなさい 2 夏がくれば 3 五月 4 月の天井 5 けんか 6 ロックスター 7 冬のひかり 8 屋上から 9 10年前 ● 33分15秒 ● パーソネル : kyooo [vo/g] ● 録音/ミックス/マスタリング : 松井敬治 ● (C) 2014 kyooo, (P) 2014 鳥獣虫魚 ------------------------------- 「屋上から」に寄せて 雪舟えま 美しい作品集の完成、おめでとうございます。 何度も聴きながら、ああ、優しい人(たち)が大人になってゆくよ、母さん、と私は思わず架空の母に呼びかけてしまいました。彼女の詞に、新しい感じかたをする世代が大人と呼ばれる年齢になってきている、そのことへの希望に鳥肌が立ったのです。 君の言うことが半分は正しいなら 僕も半分は正しいことを言おう (中略) 君の言うことが半分は正しいから 僕も半分は正しくいられるのかな /「屋上から」 の、わくわくするような新しさ。 kyoooさんの歌詞の中には、自分は「半分は正しい」とナチュラルにいえる人びとがいる。 半分正しいといえることはじつはすごいことだと思うのです。 人は、というか私は、自分の正しさよりはあやまちをいうことのほうが楽です。「まちがいだらけの私」「正しさなんて求めない」といいつつ、じつは「自分が正しい」と思っているのですが、それをそのままいうと角が立つとか、間違いに気づいたときに恥ずかしいから。ようは、自分の正しさをいうのに緊張し、余計な遠回りをしているのです。 「君の言うことが半分は正しいなら 僕も半分は正しいことを言おう」という言葉が耳に目に飛びこんできて、楽になれる自分がいました。 そうか、半分は正しいといってしまっていいんだな、と。 周囲の愛を感じながら生き、好きなものを見つけ、いまが幸せなのに、どうして完全に間違っているなんてことがあろう。「半分は正しい」といえるバックボーンにあるものは、すこやかな自己肯定感。それは確かな愛の記憶のゆえ。 では残り半分はあやまちなのかというと、残りの半分は他者あってのものということなのだと思う。これからさらに育つであろう自分たちの関係の伸びしろとして、可能性として、その半分は夢見られている気がしました。 「屋上から」のジャケットがソフトフォーカスで白くぼやけていることは、まさにその価値観で見た視界のよう。輪郭がぼやけ、硬いはずの壁も道路も、季節も時間も自分も相手もにじんで「ここからここまで」といえなくなってくる。半分、がつねに50と50ではなくて、自分と外界の呼吸の相互作用で49/51になったり、57/43になったり。踏みこんだり踏みこまれたり。それが生きているということなのですね。 柔らかくしなる細い剣を構えて、笑っているkyoooさんのすがたが脳裏に浮かびました。 彼女はフェンシングとかやったら似合いそう、と。

2014年に鳥獣虫魚レーベルから発売しました9曲入りのCDです。 流通しているためタワレコなどCD店でのご注文、お取り寄せも(おそらく)可能です。現在ネットショップで在庫がありそうなのはJET SET、EGYPT RECORDSです。 試聴:https://soundcloud.com/cgcgpub/cgcg032 2014/8/27 発売 CGCG-032 CD JAN:4941135457139 kyooo「屋上から」1500円+税 kyooo "Okujoh-kara” [From the Rooftop] 1 お帰りなさい 2 夏がくれば 3 五月 4 月の天井 5 けんか 6 ロックスター 7 冬のひかり 8 屋上から 9 10年前 ● 33分15秒 ● パーソネル : kyooo [vo/g] ● 録音/ミックス/マスタリング : 松井敬治 ● (C) 2014 kyooo, (P) 2014 鳥獣虫魚 ------------------------------- 「屋上から」に寄せて 雪舟えま 美しい作品集の完成、おめでとうございます。 何度も聴きながら、ああ、優しい人(たち)が大人になってゆくよ、母さん、と私は思わず架空の母に呼びかけてしまいました。彼女の詞に、新しい感じかたをする世代が大人と呼ばれる年齢になってきている、そのことへの希望に鳥肌が立ったのです。 君の言うことが半分は正しいなら 僕も半分は正しいことを言おう (中略) 君の言うことが半分は正しいから 僕も半分は正しくいられるのかな /「屋上から」 の、わくわくするような新しさ。 kyoooさんの歌詞の中には、自分は「半分は正しい」とナチュラルにいえる人びとがいる。 半分正しいといえることはじつはすごいことだと思うのです。 人は、というか私は、自分の正しさよりはあやまちをいうことのほうが楽です。「まちがいだらけの私」「正しさなんて求めない」といいつつ、じつは「自分が正しい」と思っているのですが、それをそのままいうと角が立つとか、間違いに気づいたときに恥ずかしいから。ようは、自分の正しさをいうのに緊張し、余計な遠回りをしているのです。 「君の言うことが半分は正しいなら 僕も半分は正しいことを言おう」という言葉が耳に目に飛びこんできて、楽になれる自分がいました。 そうか、半分は正しいといってしまっていいんだな、と。 周囲の愛を感じながら生き、好きなものを見つけ、いまが幸せなのに、どうして完全に間違っているなんてことがあろう。「半分は正しい」といえるバックボーンにあるものは、すこやかな自己肯定感。それは確かな愛の記憶のゆえ。 では残り半分はあやまちなのかというと、残りの半分は他者あってのものということなのだと思う。これからさらに育つであろう自分たちの関係の伸びしろとして、可能性として、その半分は夢見られている気がしました。 「屋上から」のジャケットがソフトフォーカスで白くぼやけていることは、まさにその価値観で見た視界のよう。輪郭がぼやけ、硬いはずの壁も道路も、季節も時間も自分も相手もにじんで「ここからここまで」といえなくなってくる。半分、がつねに50と50ではなくて、自分と外界の呼吸の相互作用で49/51になったり、57/43になったり。踏みこんだり踏みこまれたり。それが生きているということなのですね。 柔らかくしなる細い剣を構えて、笑っているkyoooさんのすがたが脳裏に浮かびました。 彼女はフェンシングとかやったら似合いそう、と。